平成18年12月の土曜日の朝、次女のアレルギー外来に車で向かっていた。
国道23号のバイパス、制限速度を守って左側を走行していた。
交差点の信号待ちの時、ルームミラー越しに娘達を見ると、長女はゲームをしていた。
次女は窓から景色を眺めていた。
それが私が最後に見た、元気に生きている次女の姿だった。
次の交差点、信号が黄色から赤に変わろうとしていた。
急げば交差点を通過出来るかもしれないが、娘達を乗せている。
危ないのでそのまま赤信号に従って停車した。
その直後、ものすごい衝撃があった。
何が起こったのか、わからなかった。
身体が痛い、自分の衣類にガラス片が飛び散っていた。
娘達が心配になり、後ろを見ると、車の後ろがない。(後日見た車体は半分くらいになっていた)
長女は痛いと泣き叫んでいて、次女はトランクと後部座席、運転席に押し潰され、ぐったりとしていた。
名前を叫んでも、返事はなく、ピクリとも動かず、腕はだらんとしていて、、
肌は赤紫色になっていた。
元気な人の皮膚の色ではなかった。
交差点近くのガソリンスタンドの方が救急車を呼んで下さっていた。
大丈夫か!頑張れ!と声をかけ続けて下さった。
気がついたら、病院のベッドにいた。
長女は車いすに乗って、病室にいた。
次女は別室で治療中とだけしか教えてもらえなかった。
その後、私の傷の処置をしてもらった。
どれくらい時間が経っただろう。
集中治療室にいる次女に会わせてもらった。
人工呼吸器の空気を取り込む音だけが、今でも耳に残っている。
脳と肺の損傷が大きく、もう二度とお母さんと呼ぶことはないでしょうと医師に告げられた。
障害が残り、このまま寝たきりになるかもしれないと。
顔や身体は外傷が少なく、寝ているだけのように見えた。
そう告げられても、夢の中にいるようで現実のこととして受け入れられなかった。
しばらく仕事を休まないとダメなので、職場に電話をしようと携帯を見ると、ものすごい件数の不在着信、留守番電話が。
主任に電話すると、事故のことは知っていて、仕事のことは心配しなくても良いから。
足(車)がないから迎えに行くよと言って下さった。(3人で葬儀の受け付けをして下さった)
次女の入院の準備をするため自宅に戻って、ドラッグストアで大人用のSサイズのおむつを買った。
加害者が家に来たり…
何が何だかわからないままで、、
病院からもう今夜が山と電話があり、病院へ向かった。
集中治療室に入ると、医師が心停止、呼吸停止、瞳孔を確認、深く頭を下げて午後11時40分ですと告げた。
警察官が2名来て、敬礼された。
事故のことを詳しく聞きたいので、また連絡しますと言われた。
(49日を過ぎた後、警察署で被害者遺族供述調書をとった。)
次女を祖父母の車で連れて帰った。
すでに身体が硬くなっていて、重くて冷たくて硬くて。
産まれた日、初めて抱っこした温かくて柔らかいぬくもりを思い出していた。
人がこの世に産まれて亡くなっていく。
朝まで元気に笑っていた人(娘)が、もうこの世にいないってどう言うことだろうと。
そしてあの日、あと5分家を遅く出ていたら、事故に遭わなかったかもしれない。
コンビニに寄っていたら、バイパスの合流地点をもう1つ先にすれば、あの交差点で止まらなければと自分を責め続けた。
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あいぼんの付き添い下校時
お母さん、青いお空がなくなってる。
もくもく雲がいっぱい。
お空が近いよ。
あいぼんちゃんのところにお空が来るよと言い、見上げた今日の空。
冬の空を見ると、あの年の12月を思い出す。
ある日突然、交通事故に遭い、次女を亡くし
犯罪被害者遺族になった。
16年が経ち、次女を亡くした悲しみ、心の傷はもう消えないと気がついた。
どんなに泣き叫んでも、次女は生きて帰ってこない。
加害者が刑務所に入っても、心の傷はなくならない。
消えない、なくならない。
それで良いんだとやっと認められるようになったように思う。
ともに過ごしたのは、5年5ヶ月という短い人生だったけれど、確かに次女は生きていた。
次女の「お母さん〜抱っこして」という甲高い声はずっと憶えている。
思い出は消えない。
風見しんごさんのゆるら。
長女えみるちゃんが交通事故で亡くなったのが、私達の事故と同じ時期。
風見さんのブログにコメントして、返信してもらったのが嬉しかった。
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